昭和43年10月6日 朝の御理解



 御理解第93節「氏子は神の守りをしておる者を神と心得て参詣する。守りが留守なら、参詣した氏子は、今日はお留守じゃと言おうが。神の前をあけておくことはできぬ。万事に行き届いた信心をせよ。常平生、心にかみしもを着けておれ。人には上下があるが、神には上下がない。人間はみな同じように神の氏子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならぬぞ」とこうありますね。
 まあ、お取次ぎをされる教師、先生に対する、これは御教えだと、御理解だと思います。けれども、まあ、教師も信者も神様の目から御覧になればやっぱり、氏子に変わりないのですから、先生だから信者だからと言うて、特別変わってはない、同じだというような見方から頂きますと、どういうことになるかと。その所を聞いて頂きたいと思う。
 「氏子は神の守りをしておる者を神と心得て参詣する」と言うように、と言うところを、まあ、氏子は信心のない者は、ね、信心のない者は信心を頂いておる者を、と言うふうに頂いて行かなきゃならん。ね。信心のない者は信心のある者を、あの人は、神や仏やらに手を合わせておる人。毎日お参りをしよる人。
 信心と言や、もう確かにその、事実そうですけれども、神様のようになって行くことが信心だと、言うふうに一般では見とります。また、事実そうです。お道の信心は特にそう。ね。「わが心が神に向こうのが信心と言うのじゃ」とおっしゃるのですから、ね、ですから、信心者のことは、あちら信心しなさるから。
 ですから、私ども、いつもその、まあ、信心のない人からですね、見られても「なるほど信心しなさるけん違う」と言うようなものをいつも持っとかなきゃいけないということ。ね。「守りが留守なら、参詣した氏子は、今日は留守じゃと言おうが」と言うところなんですね。神様が留守してござる、自分の心の中に。ね。神様を心に頂いていないと「信心しよったっちゃ、あの人はああだ」と。ね。言うようなことになりかねないのですね。
 ですから、ほんとにあの、信心頂いておる者はね、形じゃないです。ね。言葉じゃない、態度じゃない、もう心がね、心の中に神様がいつも宿ってござると言うおかげ。でそれが、自ずと形に現われてくる、言葉にも現われてくるようでなからなければいけない。ね。神様が心に宿ってござる。今神様がお留守じゃない。いつも心の中にござる。いわゆる、「我神と共にあり」と言う、言わば信心をですね。
 神の前をあけておくことはできんということは、ね、ちょうど、あの、例えば、私どもの場合、この御結界をあけてはならん。お広前には誰もござらん、といったようなことあっちゃならんということを、まあ言うておられるのでございますけれども。今私が、これは、私ども一般、信心をさして頂く者の、言わば、ここの御理解を頂いとる、そういう事になる。
 「神の前をあけておくことはならん。自分の心の上に、いつも神様を頂いておけ」ということになる。「万事に行き届いた信心をせよ」ね。その為にはやはり、常平生に、心にかみしもを着けておけと。ね。ここで教えのかみしもと言うのは、昔の侍武将が着たんですね、あのかみしもと言うのは。ある、いわゆるきちっとした信心と。ね。きちっとした信心をせよよと。
 これはもう、ほんとにあの、そうですよね、私どもでも、こうやって紋付袴を着けておりますと、何とはなしに心がシャンとする。(?)だけになったらもう、それこそまあ、こう体が緩くなってしまう。形の上でもそうですから、心の上ではならなおさらのこと。ね。そこんところを私は、修行精神だと、いつも修行の心でおれということだとこう思う。
 例えばね、あの、今度の御本部参拝のバスの中なんかでも、「はあ、ほんとにもう、寝られんから、もうどうにかして寝たい」と、もう九の字になってから、こうやって、もうその、寝る所を見つけて寝るというような人ほど疲れてる。もうほんとに、あの、もうそれこそ修行と思てと、私、そう思うんですけども、修行と思うてというように、もう例えば、こう椅子に掛けたまま眠るなら眠って、まあ言わば、行儀ようしておった人の方ほど、疲れてないんですね。
 もう私の周囲におる人達は、皆その修行をしておるんです。私が長くなって寝るもんですから、皆さん、その、寝られない。やっぱ腰がたまらんようになる。て言う人ほど、あの、疲れてない感じですね。いわゆるシャンとしてるからですよ。ですからあの、シャンとするということは、そういうおかげが伴うんですね。シャンとしておるということは、そういうおかげが伴うんです。
 きつい体の中に、眠らなかなからんはずが眠くないおかげを頂く。まあいうならば、疲れ、ほどしに疲れていない。眠ろう、眠ろう眠ろうと思うて、その眠る事だけを考えて、暇さえありゃ眠ろう。暇さえあれば横になってどうにかして寝ろう、といったような人ほど、とにかく疲れておる。ね。
 人間の心がシャンとするしないということは、そんなに違うんだと。ここは結局、心にかみしもをということは、心がシャンとしておれよということだと。ね。常日頃。ね。
 「人には上下があるが、神には上下がない」と言うのは、これは今言うかみしもではない。ね。人にはやはり、何と言いますかね、まあ、偉い人偉くない人言うようにあるでしょう。ね。先生と生徒と言ったようにですね、やっぱり上下がある。上下がある。ね。
 例えば家族の中でも、やはり、ね、親と子と。上下がある。ね。使用人の人とそこの主人と上下がある。けれども、神には上下がないとこう言うておられる。神様にはです、どんなに、まあ卑しい商売をしておろうが、金がなかろうが、金があろうが、ね、どういう尊い御用をしておろうが神様には、変わりはない。ね。神様の目から御覧になれば上下はない。ね。
 「みな同じように神の氏子じゃ」とこう言うておられるね。「みな同じように神の氏子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならんぞ」と。だから、ここんところは、まあその、どういうふうになるかと言うとね、結局、人間には上下があるんですからやっぱり、その、人間として、人間で人間を見る場合は、やはり見下したり見上げたりするわけですから、私どもの心がです、いつも神様に向こうて、わが心が神心になっておらなければですね、一様に見えて来ない。
 「見下したり汚がったりしてはならんぞ」と。そう思うても、ね、心に神心がないと、いわゆる人間が人間を見るところには、やはり、汚がったり見下したりと言うのがある。ですから、私どもがその「人を見下したり汚がったりしてはならんぞ」とおっしゃるように、そうある為には、どうしても自分の心の中に神心を強うしていかなきゃできん。ね。そこんところのおかげを頂かなければならん。ですからやはり、難しいですねこの御理解。この御教え。とにかく、自分の心が神心に。
 そこで私は今日、この御理解の中にですね、一番大事にさして頂きたいと、頂かなければならんと思うところはですね。「万事に行き届いた信心をせよ」と。万事に行き届いた信心をすると言うところにですね、私今日の、この93節が生きてくるとこう思うんです。同時に「万事に行き届いた信心」から「万事に行き届いたおかげ」を受けられるようになると思うんです。
 先生もなからなきゃ信者もない。ほんとに神の前をあけておくようなことではならん。ね。いつも自分の心の中に、神様が宿ってござる。いつも神様の思い、お側に奉仕をしておるような心持が必要である。でそういうようなことが「万事に行き届いた信心」ということになるでしょうけれども、その「万事に行き届いた信心」というもの具体的に頂いたら、どういうことになるか。
 これは、お道の信心は、はどういうことかと言うと、私どもの信心次第、心次第、それがおかげになって現われてくるのですからね。ですから、行き届いた信心をしとれば、行き届いたおかげを下さる。神様が。ね。ですから、そこに、この(めぐら?)なければ、やはりおかげを(売り合わない。?)ね。
 そこでその、神様から行き届いたおかげを頂いていないとするなら、これは自分の、形の上では行き届いたようであっても、行き届いていないということを思わにゃいかん。それはやはり、(にちにちやかん?)と言うほどに気の利いた人もあります。ね。また、なかなかそこに鈍感な人もあってですね、説明しても分からない人がある。もう説明をする前に分かる人もある。
 今日私、朝帰ってから、御祈念になるまでの準備を末永さんに「ああせんならん、こうせんならん」と私が、言いよった。「はあ、分かっております」とこう言うわけ。もうこの人これが悪い癖です。もうとにかく、私が何かいろいろと言うとですね「はい分かっております」だからいかにもそれ、まあ例えば昨日は「あんたそれ言うてござらん、分かっておるじゃなかじゃないの」と私がこう気をつけるわけなんですよ。
 そして、やっぱりほんとに分かってるです。私は、いや、言おうとしよることが、もう分かってるです。ね。ですからこれは、いかにも良いようであって、もうこんな不愉快なものはないですね。言うてから「はい、分かっております」こう言うた。だから、黙って聞いて「はい」と言うたら、もうこれが一番気持ちがいいです。
 それをですね、まーだ私が一言も言うとらん「はい、分かっております」とこう言う。「分かったて、私はまだあんたに指図もしとらんとに、分かっとるじゃないじゃないか」と言うけれども、私が何を言おうとしておる事を、この人は分かっておるわけですねやっぱり。だから、分かってると言うわけなんです。
 そういう時に、もういっちょ黙って聞いて「はい、承知しました」とこう言やいいのですけれどね。何か物を言いつけるでしょう「はい、しようと思いました」もう、ほんとにしようと思うとですよ。だから、言うたら馬鹿んごたるです。(そう言われたらそうなるんだ。?)あなた方そういう事は体験された事ないですか、家族の、子供達でもそうです。ね。
 「あれをひとつ頼んどきますよ」と言うて「はい、しようち思いました」とこう言われたら皆さん、そりゃ確かにそうじゃない。「はい、しようち思いました」そうじゃろうと思うけれども、「はい」ってその時に言うてもらった方が、どのくらい有り難いか分からんです。「しようち思いよりました」「はい、分かっております」これなんかはもう気の利き過ぎとる。
 ほいで、ほんとにこの、言わば、嫌なもんがこちらに、もう慣れとるからあの、言うんですけども、「こりゃ一遍この人にゃ言うとかにゃならん」と思ったことはそれなんですけれど。
 「はい、分かっております」「はい、しようと思いました」だから、そういう事が、(?)行き届いたということじゃないと思うんですね。普通一遍、んなら、そういう(ちんちらかん?)と言うような、そういう生き方の人ですね、それこそ、もう言うなら、かゆか所に手が届くように、「ちょっとここば掻いてくれんの」と言う前に、もう掻いてもらいよる。これは冷めてるような感じですけれども、それが信心で言う行き届いたということじゃない。ね。
 そういう意味合いで行き届いてある。( ? )高橋さんなんかはもう、ほんとに行き届いてありますよね。人間的に言えば。だから、それがいけんのじゃないけれども、信心で言う行き届いた信心と言うのは、そういう事だけじゃない。ね。いわゆる、私の心の中に、私の形の上にです、行き届いたおかげが現われておらなければ「行き届いた信心」ということにはならんのです。ね。
 ですから、神様がこういうところまで、先の先まで考えておって下さって、こういうようなおかげを受けられるというところが有り難いですね。「行き届きた信心」と言うのは。ね。
 それがね、形のとか量とかね、多いとか少ないじゃないです。もうほんとに、自分の心の中に、ね、有り難いと言うものを感じられる。言うならば、どういう事になりましょうかね、オン鳥の鶏がある。メン鳥の鶏がある。オン鳥はなかなか形が綺麗です。ね。けれども卵を生まない。メン鳥は形はそう綺麗じゃないけれども、卵を生んで行くと。ね。
 私は、形の上にできるということじゃない、問題はですね、もう日々と言うか、刻々と言うか、私どもの心からですね、その有り難いものが生みなされてくるような信心。ね。そういう信心を私は、行き届いた信心しておるから、そういうおかげが頂けれるんだとこう思うのです。ね。
 こちらが行き届くか、神様も行き届いて、もうほんとに(こういうすみ、?)こういうところにでも喜びがある。ね。こちらはうっかりしとるけれども、神様はこういうところまでも行き届いて、お働きを下さってあるんだということ。ね。そういう意味合いで、ここの場合、(いつもの場合?)それがございますですね。
 御本部参拝なんかでも、この前でも、バスも何台( ? )乗らんから、何人と言うて言うたわけじゃない。ね。お参りができる人、できない人は、もう申し込みよってもできなかった。けれども、結局はやっぱり、どうせ1台なんです。ね。もうそれを(受かったっちゃ、?)補助椅子があるから、あそこに行ってもらえやよかというふうに思うておったけれども、神様やっぱりきちっとそれだけであった。
 40名のに、行きがけが39名でしたか。ね。帰りに家内と長女が乗せさせてもらうから、2人はやっぱり今度は、補助席に、補助椅子の所へ来てなきゃならんなと思うたところが、文男さんが、用が急にできられてから、「(東までに?)下車するから、汽車で行く」とこう言われる。「ああ、そうですか」と。ね。ですから、1人行きがけ余っておったのに、文男さんが1人外れられましたから、2人できてから、きっちりしたことです。ね。
 もうほんとに「狭うとて困るですよ」と言うことがいらんわけです。と言うように、神様がもう先の先まで行き届いておかげを下さってあるということ。ね。これはもう、一事が万事に、もう様々な所に、様々な場合にそれを感じれれるような信心を頂きたい。それには、私どもがやはり行き届いた信心をせないけん。
 行き届いたと言うのはです、(しんちやかん?)ちゅうごたると言う意味でもない。形の上で、それこそ、かゆか所に手が届くように、行き回る、心が行き回る人がある。けれども、やはりこれは生まれつきですから、そら行き届かん人もある。一つの事を5遍も10遍も言わなけりゃ分からん人もあるし、今言う、半分言うただけでも分かっておると言う人もあるんです。事実。
 だから、そういうことじゃない。ね。行き届いた信心、それはやはり、常平生に、自分の心の中に神様は留守でござると言うのじゃなくて、いつも心の中にシャンとした。ね。かみしもを着けた信心をさして、いつも自分の心の中に神の心が宿っておるようなおかげを頂いて、見るものが聞くものが全てね。人間同士じゃない、神様が見られるような、神様が聞かれるような、聞き方が見方ができるようにならなきゃいけない。ね。そういう信心に心掛けさしてもらう。
 そういう事になって来る時にです、例えば、ここでは神の守りをしておる者は、留守を、お広前をあけてはならん、と言うふうに言うておられますけれども、私が今日申しますように、一般には、これを頂くならです。ね。信心をしておる者はということになる。信心をしておる者は、信心のない人達から見られて、ね、なるほど信心しなさるから、とやはり感じ思いなさるようなおかげを頂く為には、私どもの心の中が行き届いた信心をしておらなければ、自分は信心しておるけんで、信心のなからん人達の前には、こうして見せなきゃんならん、こうせんならんと言ったようなもんじゃないということ。ね。
 ところが私どもの心の中に、それこそ「今日は留守じゃ」というようなことになってくる。
 叩いても喜ばれる、悪く言うても感謝されるような、私は、言い方ができるおかげを頂く為にもです、自分の心の中に、神心がなからなければ言えない。ね。叩かれない。場合には、叩いてでも分からさなければならんことがある。叩いて自分の心まで汚したり穢したりしておるような叩き方なら、叩いちゃならん。
 叩いて「はあ、これでおかげを頂いた」と自分が思えるような叩き方じゃなかないかん。例えば、子供のしつけをするでもそうです。ね。人に忠告をするでもそうです。人を叩いて自分も叩かれておるような気がする。そういう叩き方は、いよいよいけません。ね。人に、言わば、言うて教えてあげる。ね。それが反対に自分が、心を汚す、為の汚すような言い方であってはならない。ね。
 自分の心の中にね、神心が宿っておらなければ、心の中に神様が留守であるとです、やはり感情で言う。自分が言いよる。ね。そこから私は、ね、確かに、その人に為になる事を言いよるんだけれども、相手の人がそれをそれと受けていない。ね。叩いてから、自分も叩かれとると同じ。ね。
 例えば、ガラスがガラスを叩きおるようなもんです。相手のは粉々に割っとるけれども、自分のも粉々に割れておる。ね。そういう、私は、おかげを頂く為にもです。ね。たとえ人に物を言うでも、自分の心の中に今、ほんとに神心、神が宿ってござって言うておるか、しておるかということを確かめて行くような信心。ね。そこに、かみしもを着けたような信心が要求されるわけです。ね。
 「万事に行き届いた信心をせよ」と。ここんところに、万事に行き届いた信心をさして頂きたい。もちろん形の上においても、しておかなきゃならんどこじゃない。けれども、心が伴うておるかどうか。ね。そして、結果においては答えにおいてはです。ね。やはり神様が、こういうところにまで、このようにお働き下さって、行き届いたおかげが受けられてある。心に感じるもの、形に現れてくるもの、もう実に行き届いた事である。ね。
 そういう、例えば、行き届いたものじゃない、そこに欠けたもの。ね。それとは反対のこと。ね。が次々と自分の周辺に起きて来るならです、いかに自分が行き届いた信心をしていないかということを、ひとつ分からしてもらうと。いわゆる、万事に行き届いた信心をさして頂く事に、心を入れ替えていかなければいけん。そこに、信心に工夫を凝らしていかなければいけない、と私は思うです。
 昨夜、壮年部会でしたが。久富いさむさんがおられました中に、先日、今日(?)先生にお取次ぎを願って、お野菜を作らなければならんので、ほうれん草を蒔かして頂こうか、春菊を蒔かして頂こうかというお伺いをされた。そしたら(?)が、「久富さん、今度は春菊を作ったがよかろう」とこう言われた。
 どうも自分の考えではどうもほうれん草が、高いほうれん草がよかろうごとある。うん。春菊の種を買うのに、ちょっと不便なところもあったから、ね、せっかくお伺いしたけれどもほうれん草を蒔いた。まあ、もちろん春菊と言われたから、春菊も少しは種を買って、蒔かして頂いた。
 もういよいよ今度天気になったら、ほうれん草が出されるぞと言うところまで、立派に育ったんですけれども、雨が続いて、みんなもう、みんな腐ってなられてしもうた。ほうれん草は。残ったのは春菊だけだった。
 ほんとに、御神意の間に間におかげ頂かなきゃいけなかったということを分かると同時にです、人間の考え、人間の考えと言うものが、どのように、もろいつまらないかということを分かった。
 いわゆる、いつも、まあこれは、久富いさむさんの独壇場と言うかね。「我無力」と言う言葉いつも使われて、先生、この我無力ということでもう、だんだん、いよいよ広う深う分かっていかなければなりませんが、一つ一つ、広う深ういよいよ自分が無力である事を分からして頂くという。「はあ、石橋さんそれで、そこですばい。これはもう春菊がね、高く売れたとか、ほうれん草が御神意を頂かなかった方が、じゃなかった方のほうれん草は、もう市場に出す寸前になってから流れてしまったとかって、言うようなところのおかげのとこだけじゃなくてですね、いよいよその自分の、その無力さ加減というもの、その事によって、いよいよ深さを増して頂けたというところが、第一のおかげだったですね、と言うて聞いたことですけれども。ね。
 とにかく同じ「我無力」と言う、いわゆる、ここに教祖は「障子一重がままならぬ人の身」とこうおっしゃっておられます。ね。ほんとに「障子一重がままならぬ人の身であるというところにですね、いよいよ信心が、この分かっていく。そこから信心を打ち立てられる。しかし、その信心とてもです、まあもう、その度々に、その深さを増してくるというおかげを頂かなきゃいけんのです。ね。
 「万事に行き届いた信心をせよ」ということでもそうです。万事に行き届く大抵行き届きよるごとある。けれどもです、ね、いよいよ神様が、このようなところにまで、このような行き届いたおかげを私の為に、しておって下さったんだと、思えれるようなおかげを頂く為にはね、いよいよその行き届いた信心と言うものが、いよいよ深さを増してこなければならんと思うのですよ。それにはいよいよ、ひとつ本気でかみしもを着けたような信心をですね、さして頂いて、おかげを頂きたいと思いますね。どうぞ。


明渡 孝